皆さん、こんにちわ^ ^
シンゴです。
今日は冷蔵庫に残っていた最後のお米1合だけを炊いたのですが、
僕が自宅で使っている炊飯器が最大10合炊けるファミリー仕様のものでして、
(実家住み時代から使い続けている約10年物)
1合だけ炊きたくても1合用の目盛表示が無いので今回「こんなもんやろ」っていう目分量のお水で炊いたんですね。
そうしたら、思ってたよりもお水の量が多かったようで、画像では伝わりませんが、
僕の一人暮らし史上最も水気の多い、
ベチャベチャの仕上がりのご飯が炊きあがってしまいました。↓
このご飯が炊きあがって、しゃもじですくい上げた時に、
一瞬で「あ〜、ちょっと水が多かったか〜」と
思うと同時に、
5年前に病気で亡くなった母親を思い出してしまって、泣けてきたんですね。
というのは、母親が元気だった頃、実家住みの僕は毎日、母親にご飯を作ってもらっていまして、
いつも美味しい料理を作ってくれていたのですが(僕の母親は料理は上手かったと思います。)、たまーに失敗する時があったんですね。
カレーの味が妙に薄かったり、甘ったるかったり、
焼き魚が焦げまくっていたり、
新メニューに挑戦したと思ったら、なんか微妙な味付けだったり(←このパターン多かった)・・・とか。
で、ご飯の水の量を間違ってベチャベチャの仕上がりになるっていうのも、たまにあったんですよ。
その「失敗の日」のご飯、おかずを食べた時・・・
思い出しても本当に本当に申し訳ない、
「オカン、ほんまごめんな」と今でもたまに思い出して泣けてくるときがあるんですが、
まあ食べながらタラタラ文句言ってましたね、
母親に。
特に思春期というか反抗期というか、
僕が人生で一番調子に乗ってた14〜18歳くらいの頃なんか、
ストレートに「今日のカレーめっちゃ味うすいんやけど・・・」とか、
「なんで、いつも同じ事してるのに今日のご飯ベチャベチャなん?」とか、
いやほんまに書いてて恥ずかしくなってきます。
ヒドい息子でした(苦笑)。
僕がそんな辛辣なことを言っても、
優しい母親は「はいはい、ごめんなさいね。次から頑張ります。」って、
大抵は軽く笑って流すような感じでしたが、
やはり母親も機嫌が悪い日があったりしたでしょうし、
僕の言い方が気に食わない時は、
「私も人間やからな。いつもそんな完璧に出来へん!」と語気を強めて、僕と険悪な空気になりながら黙々とご飯を食べる、という日もありました。
いやーほんまに感謝のないアホな息子でした(しみじみ)。
そんな僕も大人になるにつれて、
子供じみた言い方の料理への文句も少なくなり(と今でも信じたい)、
母親がご飯の水の量を間違って、前もって
「シンゴ、今日悪いけど、ご飯柔らかくなってしもうたわ」と言ってきた時は、
僕は笑いながら
「柔らかい方が消化に良いから、時々食べた方がええと思うわ」などと返すようになったりしました。
今思えば、文句が出るというのは、やはり当時の未熟な僕の中に、母親が子供のご飯を作るという行為は
「親として当たり前のこと」「親として常識」という観念があったからだと思うんですね。
作ってくれた人の気持ちも考えずに文句を言ってしまっていた年頃の頃でも
「親が毎日ご飯を作ってくれる事を君は感謝してるか?」と誰かに問われたら、
迷うことなく「そりゃ感謝してますよ」と即答しただろうし、その気持ちに嘘はなかったと思いますが、
やはり、心の芯の芯から、心の底から
「ああ、ほんまにありがたいことしてくれてたんやなあ・・・。ほんまに感謝やわ」と思うようになったのは、
母親が病に倒れた時からですね。
あの頃は、母親より先に父親も病で倒れ、
食材の買い出しに行くのは僕と妹の分担になったのですが、
(妹の方が割合的に行ってくれる回数多かったと思います。この場を借りて妹にも感謝します。ありがとう。)
スーパーに行ってなんだかんだ買って、自転車のカゴに入れて帰ってきて・・・という日々を繰り返していると、
「おかん、これを俺らのために毎日やってくれてたんや」と、もう感謝の気持ちが溢れ出して溢れ出して、そこでやっと母親という存在の
偉大さ、ありがたさを実感しました。
遅いんですけどね(反省)。
今日の僕が炊いたベチャベチャご飯は
他人に差し出したら「ベチャベチャやん」と突っ込まれること間違いなしですが、
僕にとってはとても懐かしい、美味しいご飯でした。
オカン、ありがとう。
今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。