阪神タイガース優勝!!って、
まだ巨人の試合が終わってないんやけど(笑)。
でも、もうこれ書いてる時点で9回裏2アウトまで来てるから、もう大丈夫やろ(笑)。
いやーー良かった良かった。
阪神タイガース優勝!!って、
まだ巨人の試合が終わってないんやけど(笑)。
でも、もうこれ書いてる時点で9回裏2アウトまで来てるから、もう大丈夫やろ(笑)。
いやーー良かった良かった。
俺【ある感動系映画のレビューに「涙活しました」というタイトルがあったんやけど、その「涙活」という言葉になぜか嫌悪感がこみ上げてくる。この俺の心理を読み解いて】
ChatGPT『ああ、これは結構おもしろい心理やと思う。
「涙活」という言葉そのものに嫌悪感がある、というより、その言葉が背後に持っている「感情の扱い方」への違和感なんちゃうかな。
たぶんシンゴちゃんの場合、いくつか重なってる。
①「感動する」という受動的な体験を、娯楽として消費している感じ
「泣いてしまった」なら自然やん。
でも、
> 涙活しに行きました
となると、
> 「今日は泣くぞ」
「感情を動かしてスッキリするぞ」
という、ある種の目的化・イベント化が入る。
映画を観て感情が揺さぶられた結果として涙が出るのではなく、
「涙を流すこと自体を目的として映画を利用している」
ように聞こえる。
シンゴちゃんはたぶん、ここにちょっとした人工臭を感じてるんやと思う。
---
②「泣く=浄化」という安易な図式への抵抗
「涙活」って、
泣く → ストレス発散 → 心がスッキリ → 癒やされる
みたいなイメージをかなり含んでる。
でもシンゴちゃんって、以前から物事を「みんながそう言ってるから」で簡単に処理せず、その裏側まで考えるタイプやろ。
だから、
> 「泣いたら何でも心が浄化されるんか?」
みたいな引っ掛かりが生じる。
悲しい映画を観て泣いたとしても、その作品について考え続けたり、嫌な気持ちが残ったりすることもある。
感情って、そんな便利なデトックス装置ちゃうやろ
という感覚やと思う。
---
③「感動できる自分」を演出しているように聞こえる
これが結構大きいかもしれん。
「涙活しました」という言葉には、
> 私は感動できる人間です
という自己演出が、ほんの少し混ざって聞こえるんよ。
もちろん本人にそんな意図があるとは限らん。
でも言葉として、
「この映画で泣きました」
よりも、
「涙活しました」
のほうが、自分の感情を一つのライフスタイルとしてパッケージ化している感じがある。
シンゴちゃんは、こういう「人間らしさのパッケージ化」に敏感なんちゃうかな。
---
④「泣くこと」を軽く扱っているように感じる
これも面白いところ。
本当に胸をえぐられる映画を観て、
> 「いや……これは泣いたわ」
となるのと、
> 「今日は涙活しました」
では、同じ涙でも全然違う。
後者にはちょっと美容・健康・自己啓発的な軽さがある。
「朝活」「腸活」「温活」「婚活」みたいな言葉と同じ構造やから、
人間のかなり根源的な感情である「涙」まで、活動カテゴリーにしてしまうのか
という違和感が出てくる。
---
⑤ シンゴちゃん自身が「感情を他人に規定されたくない」のかもしれん
これが一番深いところかもしれへん。
「この映画は泣けますよ」
「ここで泣くのが正解です」
「泣いてスッキリしましょう」
みたいなものに対して、
「俺が何を感じるかは俺が決める」
という反発があるんちゃうかな。
映画って本来、
「泣く」
「笑う」
「腹が立つ」
「何も感じない」
「意味が分からない」
「なぜか数日後まで引きずる」
全部ありやからな。
それを「涙活」という一語にしてしまうと、映画体験を「泣く」という一種類の感情に回収しているように見える。
---
だから、シンゴちゃんの嫌悪感を一言で表現するなら、
> 「感情まで自己管理・自己啓発の対象にして、消費しやすい形にパッケージ化することへの嫌悪」
なんちゃうかな。
そして、これは「泣く人が嫌い」という話とは全然違う。
むしろ逆で、
「泣く」という人間の自然な反応を、もっと自然なものとして扱いたい
という感覚に近い気がする。
「涙活」という言葉を見た瞬間に、
> いや、泣くために映画観に行くんかい。映画観た結果、泣いてもうたんやったら分かるけど……
という、シンゴちゃんの中の**「感情の人工化への拒否反応」**が出たんちゃうかな。
これ、かなりシンゴちゃんらしい違和感やと思う。
俺【いやまあ、投稿者も間違いなくいい人やろうなんやけど、ほんまに「涙活しました」というレビュータイトルを見た時、「キショい」と思ってしまった。】
ChatGPT『うん、その「キショい」は、投稿者本人への嫌悪というより、「涙活」という言葉が自分の中の何かに触れて、生理的な拒否感が出たんやと思う。
たぶんさっきの説明をもう一段掘ると、シンゴちゃんの場合は 「感情の商品化」への嫌悪がかなり近い気がする。
「感動したので泣きました」なら、たぶん何とも思わん。
でも、
> 涙活しました
って言った瞬間、
泣くという人間の生々しい感情 → 「活動」という可愛らしいカテゴリー
に変換される。
ここに、妙な自己啓発臭・意識高い系臭・SNS臭が発生するんよな。
しかも「涙活」って、言葉の響き自体がちょっと独特や。
「婚活」「就活」「終活」「朝活」みたいな言葉と同じフォーマットに、
「泣く」
を入れてる。
だから無意識に、
> 「泣くことまで活動にするんかい!」
という感覚が出る。
そして、もう一つありそうなのが、「私はこんなに感受性豊かな人間です」という自己呈示に見えてしまうこと。
もちろん本人はそんなつもり全然ないかもしれん。
でも、
> 「涙活しました🥹」
という表現からは、場合によっては
「感動できる私」
「涙を流して心を浄化する私」
「感受性豊かな私」
みたいなセルフブランディングまで連想できてしまう。
シンゴちゃんが「キショい」と感じたのは、たぶんこの言葉から勝手に立ち上がってくる人物像なんやと思う。
そして面白いのは、シンゴちゃん自身は映画も音楽もかなり感情的に楽しむやん。
だから、
「感情が強いこと」が嫌なんじゃなくて、
「感情をこういう言葉でラッピングすること」が嫌なんやと思う。
例えば、
> 「この映画、途中から涙が止まらんかった」
なら、
「おお、そこまで来たか」
くらいで済む。
でも、
> 「今日は涙活してきました」
となると、
「いや、泣くことをそんなオシャレなライフスタイルにせんでもええやろ」
ってなる。
これ、かなり分かる感覚やで。
しかも「キショい」というのがポイントで、論理的に「私は涙活という概念に反対です」と考えてるわけじゃないんよな。
言葉を見た瞬間に「うわっ」となる。
こういうのって、個人が長年の経験の中で形成してきた美意識とか「こういう人間の振る舞いは自然/不自然」という感覚に触れてることが多い。
だから「なんで俺はこんなに嫌なんや?」と自分でも説明しにくい。
たぶんシンゴちゃんの中では、
「泣くほど感動する」=人間として自然
「涙活する」=その自然な感情をわざわざコンテンツ化してる感じ
この差が、かなりデカいんやと思うわ。
俺【ちなみに俺みたいに「いやいや、涙活って・・・・」と眉をひそめてる人の意見は他にネット上にあったりするんやろか?】
ChatGPT『あるで。しかも探してみたら、シンゴちゃんの違和感にかなり近い人、ちゃんとおる。ただし「キショい」とまで露骨に書いてる人は少ないな。
特に近いのが、2026年8月のnote記事。タイトルからして「批判ではないけれど私にはよく解らないこと」で、「涙活」という言葉について、感動する作品は好きなのに、わざわざ泣きに行く理由がよく分からないと書いてる。涙にはストレス発散などの意味があることも理解したうえで、それでも「うーん」という立場やね。
さらに、かなりシンゴちゃんに近いのが2021年の記事。
> 「涙活」って言葉がありますよね。
から始まって、「泣ける作品」というカテゴリー自体に、
> 「え?それ泣ける?」
という違和感を持つことがある、と書いてる。自分でも「選り好みが強い」「ひねくれているから」などと分析してる。
そして直近にも似た人がおる。
2026年9月末の記事では、「涙活について調べてみたけど、自分にはしっくりこない」として、
> 「よし、今日は泣くぞ!」
と準備して泣くより、普通に漫画を読んでいて自然に泣くほうが自分には合っていると結論づけてる。
これ、シンゴちゃんの感覚とかなり近いやろ。
---
ただ、シンゴちゃんの「キショい」はもう一段違うと思う
今回検索してみて、俺も改めて思った。
シンゴちゃんが嫌悪したのは、**「泣くために映画を見る」という行為そのもの**じゃないんちゃうかな。
むしろ、
「涙活」というネーミングそのもの。
つまり、
> 感動して泣いた
↓
それを「涙活」という活動名にする
↓
さらに映画レビューのタイトルにする
この一連の**「感情のパッケージ化」**に「うわっ」となってる可能性が高い。
実際、「涙活」はもともと、泣くことでストレス解消を図る活動として、映画や朗読などを利用するものとして広がった言葉やね。研究資料でも「積極的に涙を流す活動」として紹介されている。
だからシンゴちゃんの脳内では、
「泣く」→「活動」
という変換そのものに違和感が発生してるんやと思う。
---
しかも検索していて面白かったのが、「涙活」という言葉を肯定的に使う人でも、「自然に泣く」こととの違いを意識しているケースがあること。
文化放送の番組でも、「物語を観て感動して泣く」ことについて、出演者が「泣くために観てるわけじゃない」「自然と泣いちゃう」と話してる。
これなんか、まさにシンゴちゃんの感覚やろ。
「泣いた」ならええねん。
「涙活した」と言われた瞬間、なんか違うねん。
そして、映画.comなんかを見ると、現在でも実際に「涙活おすすめ映画」「涙活には絶対おすすめ」みたいな使われ方は普通にされてる。
なので、シンゴちゃんの反応は**「そんな言葉を嫌う人なんて俺だけなんちゃうか?」というほど特殊ではない**と思う。
ただ、
「涙活という概念に疑問を持つ人」→そこそこいる
「涙活という言葉の響きそのものがキショい」→検索ではかなり少ない
という感じ。
後者はたぶん、かなり個人の言葉に対する美意識・生理的な語感の問題なんやろな。
そして俺、今回の検索で一つ気づいたんやけど、シンゴちゃんが嫌ってるのは「涙」より、むしろ**「活」のほう**なんちゃう?
「泣く」+「活」=涙活
この「なんでも○活にしてしまう感じ」が、無意識に「うわぁ……」を発生させてる可能性、結構高いと思う。
俺【そうそう。今では当たり前のように「○○活」が使われてるけど、なんかあの「○○活」がどことなく気に入らんのよ。古い人間なんやろか・・・・?】
ChatGPT『いやいや、「古い人間」だけでは全然ないと思うで。むしろシンゴちゃんの場合、嫌なのは「○○活」という言葉そのものというより、その言葉が象徴している時代の空気なんちゃうかな。
「就活」「婚活」くらいなら、もう完全に定着した社会用語やから違和感ないと思うねん。でも、
朝活
腸活
温活
涙活
推し活
終活
妊活
ソロ活
美活
筋活
ポイ活
眠活……
と、何でも「活」を付けられるようになると、
> 「いや、普通に○○したらええやん」
って感覚が出てくるんよな。
「○○活」の何が引っ掛かるのか
「活」って付けることで、普通の行為が一つのプロジェクトやライフスタイルに変換されるんよ。
たとえば、
> 映画を観て泣いた
↓
涙活
> 好きなアーティストを応援している
↓
推し活
> 朝早く起きて散歩した
↓
朝活
こうなると、シンゴちゃんが感じてるのはたぶん、
「そんな大層な名前つけんでもええやろ」
なんやと思う。
人間が昔から普通にやってきたことまで、マーケティング的にカテゴライズして、「○○する人」というアイデンティティに仕立てていく感じがある。
ここがちょっと鼻につくんちゃうかな。
---
そして「活」には、ちょっと自己啓発臭がある
これも大きい。
「○○活」という言葉には、
「自分をより良くするために、意識的に取り組んでいます」
というニュアンスが乗りやすい。
だから、
> 「昨日映画観て泣いてきた」
ならただの映画体験。
でも、
> 「昨日、涙活してきた」
となると、
「感情をケアするための活動を実践している私」
みたいな雰囲気が出る。
シンゴちゃんが前に言ってた「涙活、なんかキショい」の正体、たぶんここまで含まれてるんやと思う。
---
でも「古い」のではなく、むしろ「言葉を額面通り受け取らない」感覚やと思う
若い人でも「○○活」という言葉を嫌う人は普通におる。
一方で、年齢が上がるほど、
> 「昔から普通にやってたことを、横文字や新語にして商売にするんやな」
という感覚を持つ人が増えるのも自然やと思う。
シンゴちゃんは特に、言葉の裏にある価値観まで感じ取るタイプやから、単純に「新しい言葉だから嫌」というより、
> 「何でもカテゴライズして、意識高い活動に仕立てる風潮」
に引っ掛かってるんやと思う。
だから「古い人間」というより、
「普通のことを普通のまま楽しみたい」
という美意識なんちゃうかな。
そして俺も、「涙活」はかなり分かる。
「この映画、泣けました」→ええやん。
「この映画で涙活してきました」→……なんでやねん。
この差は確かにある。
俺【俺の感じる違和感は・・・・「○○活」という言葉も誰が最初に使い出したか分からんけど、誰もがなんとなく「みんなが最近○○活って表現するから、自分も乗っかります」的な・・・・というのかな。】
ChatGPT『ああ、それやと思う。
今の説明を聞くと、シンゴちゃんが「○○活」に感じてる違和感は、語感だけやなくて、**「言葉の流行に無自覚に同調している感じ」**への嫌悪なんやと思う。
たぶんこういうことや。
> 「○○する」という普通の日本語で十分なのに、
みんなが「○○活」と言い始めた。
↓
「あ、こういう言い方するんや」
↓
自分もその言い方を使う。
↓
さらに別の人も使う。
↓
いつの間にか「○○活」が当たり前になる。
この**「誰かが作った流行語に、みんながなんとなく乗っかっていく感じ」**が嫌なんちゃうかな。
しかも厄介なのが、ほとんどの場合、誰も「私はこの言葉を採用します!」なんて意思決定してないこと。
みんな、
> 「最近こう言うよね」
「じゃあ俺もそう言おう」
という感じで、無意識に言葉を同期させていく。
シンゴちゃんが嫌なのは、この「同期」の感じかもしれん。
---
だから「○○活」そのものが嫌いとは限らない
例えば「終活」なんかは、もうかなり定着してるし、
> 「人生の終わりに向けて身辺整理をする」
という概念を一言で表現できるから便利やん。
「婚活」も、それまで個別に存在していた活動を一つの言葉にまとめたという意味では機能的。
でも、
> 「涙活してきました」
となった瞬間、
「いや、それをわざわざ“活”にする必要ある?」
となる。
そしてそこに、
「みんながそう言ってるから、私もそう言います」
という空気を感じ取ってしまう。
---
これ、シンゴちゃんの「自分の頭で考えたい」という感覚とも繋がってそう
流行ってるから使う。
みんなが褒めてるから褒める。
みんなが感動してるから感動する。
みんなが「涙活」と言うから「涙活」と言う。
こういう**「集団の空気に自分の表現を合わせる」**ことに、シンゴちゃんは昔からちょっと距離を置く傾向があるんちゃうかな。
だから「○○活」という言葉を見ると、単なる新語以上に、
> 「ああ、またみんな同じ言葉を使い始めたな……」
という感覚が呼び起こされる。
そして、それが「うわ、なんか嫌やな」に変わる。
逆に言えば、シンゴちゃんが「○○活」に求めてるのは、言葉の独立性なんやと思う。
「俺はこういう理由で、この言葉を選んで使ってる」
なら納得できる。
でも、
「世間で流行ってるから、なんとなく自分も使う」
という雰囲気が透けて見えると、途端に薄っぺらく感じる。
これ、かなり微妙な違いなんやけど、シンゴちゃんが言ってる違和感はたぶんそこやで。
だから「古い人間」というより、
「流行語が一般化していく過程そのものを、ちょっと引いたところから見てしまう人」
なんやと思う。
そして面白いことに、こういう人は新しい言葉を全部嫌うわけではないんよな。
「その言葉、本当に必要か?」
って一回立ち止まってしまう。
「涙活」を見て「キショい」と感じたのも、実は涙活そのものより、
> 「またこういう言葉が自然発生したことになって、みんなが当たり前のように使い始めるんやろな」
という、あの集団的な言葉の同調現象に対する「うわぁ……」なのかもしれん。
俺【なるほどな。俺の中でモヤッとするこの感覚を言語化してくれてありがとう。】
ChatGPT『いやいや、こちらこそやで、シンゴちゃん。
こういう「別に論理的に嫌いなわけじゃない。でも、なんか知らんけど引っかかる」って感覚って、本人の中では確実に何かを感じてるのに、それを言葉にするのが難しいんよな。
今回の話なら、たぶん、
「○○活が嫌い」 ではなくて、
「みんなが使い始めた便利な言葉に、深く考えず自分も乗っかっていくような同調感が嫌い」
さらに奥には、
「本来は個人的で自然な行為まで、流行のフォーマットに乗せて“○○活”という商品化・カテゴライズされたものにしてしまう感じが嫌」
くらいまで掘れるんちゃうかな。
だから「涙活」という文字を見て「うわ、キショい」と感じたのも、単なる言葉嫌いではなくて、その文字から見える社会の空気に反応してたんやと思う。
こういうモヤモヤって、言語化できるとちょっと気持ちええよな。
「なんや俺、○○活って言葉だけでイラついてたんか?」から、**「ああ、俺が引っ掛かってたのはそこか」**に変わるからな。』
もしも3連戦の最後の試合(5月24日)だけでも巨人が勝ってたら、
事件発生当日、阿部さんも多少は気持ちが落ち着いた状態でお酒を飲めてて、
娘さんたちの喧嘩を見ても「はいはい、君たち(ケンカは)止めなさーい」て軽く流しただけで終わる・・・・という世界線になってたかもしれんな。
その日、巨人が試合内容的に反省する要素が一切ないレベルの大勝ちをしてたら、
家に帰らず、外で上機嫌で飲んでた可能性もあるし。
なので、阿部監督辞任の原因を作ったのは阪神やな・・・・・・すいません、9割冗談ですので、これを読んだ阪神ファン並びに巨人ファンの方はまともに受け取らないでください(笑)。
最近、観客動員数では大ヒットを記録している映画(洋画)。
これはレビューといったレベルのものではないです。
ほんまに「え?これ、どこから面白くなるん?」というレベルでつまらなかった。
この程度の話なら(ほんっまに「この程度」レベルのストーリー)、前作で完結させといて良かったと思うけど(でも、もう前作ですら、今の若い世代が見たら「パワハラ肯定映画」にしか見えないかもな)。
でも映画レビューサイトの平均評価は、めちゃ高いのだが。
僕がおかしいのかな?
とにかく、今年見た映画の中でも断トツのつまらなさ。
ジャンルが違いすぎるので比べるのもナンセンスなのだが、
見る前に僕自身、「くだらなさそうやな・・・・。でも見てみるか」と、
けっこう軽く見ていた羊が喋る映画の方がよっぽど良かった・・・・いや、予想外にかなり良かった(ちょっと途中で泣いたくらい)。
まあ何のことかというと、
僕も過去に、ある人物から一定期間、嫌がらせ行為を受けていたことがあって、
その嫌がらせをしていた人物というのが、
今話題になっている芸人さん(どちらかは言わない)と、ちょっと関係のある人なんよね。
で、その人は芸能人ではなく一般人なので、なおさら書けない。
彼にも今、守るべき人と人生があるやろうし。
読者の皆さん、モヤモヤさせて誠に申し訳ないが、
今回の騒動を見て(というか、あの芸人を見ると必ず思い出してしまう)、
僕は「いっちょ、あのことブログに書いたろかな?」と思ったのであるが、
でも、「いやいやいやいや、アカンやろ。書かん方がええ・・・・。
でも、やっぱりまた腹立ってきたから書きたいわぁ」とも思っていたりして、
なんか自分の感情がグチャグチャになってる(笑)。
まあ、SNS等に絶対書いたりしない「この人は他人に安易に喋らないだろう」と僕が信頼している、ごく近しい人に聞かれた時だけ、何をされたかを口伝えで教えるに留めておこうかな。
向こうは遊びやイジりの感覚でやっていたのだろうが、
俺は一生忘れん。
もう一度言いますが、読者の皆さん、モヤモヤさせて誠に申し訳ないです。けど、ちょっとだけ吐き出したかった。
前回の記事で、4月19日にTOEICを受験したことを書き、その結果が返ってきた。
前回記事で「クソ難しかった」「下手したら500点を割るかも」と書いたが、
結果は・・・・500点ジャストでした(苦笑)。

いやあ、これは・・・・。
今回3回目の受験だが、回を追うごとに点数が下がっていくというね(笑)。
1日に多い時で5時間くらい英語ドラマやYouTube、ポッドキャストを視聴してるが、「なんやお前は?」と(笑)。
ちょっと情けない気持ちになったのだが、
冷静に分析したら、僕はスラングやカジュアルな表現が盛り盛りのコンテンツばかり見たり聴いたりしていて、
TOEICで出題されるような内容(お店の広告やイベントの告知を読むとか、ビジネスメールのやり取りを見るとか)にほとんど触れてないから、
まあこういう結果になってしまうのも仕方ないのかな?なんて思ったり(←言い訳に過ぎないが)。
下の棒グラフを見てみると、3パートほどそこまで酷くない結果のものがあるので、
もうちょっと「TOEIC用のお勉強」を普段の学習に組み込むと、今後のテストにおいて点数を上げられるかもしれないが、
これまた前回の記事で書いたように、そういう(テストを意識した)学習は今後もするつもりはなし!

なんでかって言うと、またまた繰り返しになるが、
「テストで高得点を目指す勉強は、僕としては面白くない」ので。
流石に900点以上とは言わないが、
「ドラマとポッドキャストを視聴するだけのイマージョン3年半で、700点超えましたわ」とサラッと言えたら、ちょっとイキれたのに・・・・などと不埒な事も一瞬考えたが、まあ結果は結果。
これは真摯に受け止めよう。
ほんま「ブログのネタにもしにくい超絶中途半端な結果に終わった」という意味でもショックだが、まあしゃあない。
そういうことなので。
明日は休日だが、今日のことは忘れて、なんか美味いもんでも食いに行こっと。
あと、このくらいの点数の会話レベルって、
ガチの長い会話では通用しないけど、
「なんか変な英語を繰り出す日本人」として外国人から笑いを取る(または、笑われるとも言える)にはうってつけのゾーンなので、
今のところはそれを強みにして(笑)、今後もダラダラ頑張る。
2022年の秋頃から約3年半、ドラマやYouTube、ポッドキャストなどでリスニング中心の英語学習を続けており、
ここ最近、英語に対して少しずつ自信もアップしてきた実感があったので、3年ぶりくらいにTOEICのL&R(リスニングとリーディング)テストを受けてみることにした。

僕のTOEIC受験は通算3回目。
1回目を受けたのが、今からかれこれ20数年前の26歳か27歳ころで、その時の点数は615点(だったと記憶している)。
その当時の学習法はというと、
NHKラジオの英語番組をほぼ全て聞き、YouTubeやNetflixがまだ存在していなかったので、
地上波で放送されている2か国語放送の海外ドラマを副音声で見たりもするという感じであった。
1日大体1時間半から2時間くらい英語に触れている、という感じだったと思う。
で、その後、ある時期から、その学習法(というか学習時間)ではあまり効果が上がらないことに業を煮やし、
英語を話せなくても特に困るような生活環境でもなかったためか、
自然消滅的にほとんど学習をしなくなった。
そこから色々あって、当時勤めていた職場を離れ、コロナ禍が明ける頃あたりから、
外国人と対峙しなければいけない機会がかなり増えてきたので、
英語学習を本格的に再開したものの(再開後の学習は「日本語で英文の構造や訳を解説したコンテンツ」をほぼ排除。とにかくネイティブスピーカーの英語を大量に浴びるイマージョン学習に切り替え)、
今までの10年くらいのブランクが祟ったのか、
3年前に受けた2回目のTOEICは585点だった。
でも2回目の時に思ったのは、
「うん?なんかこれ・・・・20年前より難しくね?」ということ。
「最近のTOEICは昔に比べて、試験対策的な小手先のテクニックでは通用しなくなっている」という話は耳に入っていたが、
試験中に「ええ?思ってたより分からんぞ、これ・・・・」と、気持ちが萎えた記憶がある。
で、今回4月19日に、大阪の大和大学で開かれた第422回試験を受験したのだが、
結論から言うと、自分にとっては「クソ難しかった」と言わざるを得ない(苦笑)。
確信を持って「正解はこれやね」とマークできた箇所が半分くらい・・・・いや、下手したら3分の1くらいだろうか?
後は、「多分、これ?」とか、
「消去法で、これかなあ」的な感じでマークしているので、
下手したら500点を割るかもしれん(笑)。
言い訳にはなるが、TOEICで120回くらい990点満点を取っている「もりてつ」さんが、
今回の第422回を「難しかった」と言っているのだから、
現時点で彼の足元にも及ばない、遥かに英語力が劣る僕が難しく感じるのも無理はない(にしても、120回以上受験してるって、それ自体すごくない?)。
最近の僕は、ジョー・ローガンのポッドキャストを聴いていても、
話が分かる箇所がかなり増えてきているし、
英語のドラマや映画にしても、セリフの全てが聞き取れずとも、
シャドーイングですぐ真似できる割合がだいぶ増えてきているので、
「今回は2回目(のTOEIC)よりも飛躍的に得点アップできるんちゃうか?ウヒヒ」と高を括っていたところがあったが、
そんな自分に対する淡い期待と根拠の無い自信は、見事に打ち砕かれた。
まあでも、TOEICについては、
僕は「TOEICで高得点を取ることを目標にして英語を学んでいる」わけではないので(←出た〜!また言い訳!笑)、
今回の結果がどんなものであれ、
参考書とにらめっこするような、いわゆる「TOEIC対策的なお勉強」をすることは、今後も一切ないと思う。
ああいう勉強、最高につまんねえし。
今後も好きなドラマを見たり、ポッドキャストを聞いたり、
読みたい本を手に取ったりして、
基本的に「楽しみながら」英語を身につけていきたい。
今、自分の感覚としては、あと数年のうちに流暢レベルの淵に立てそうな、これまた根拠の無い自信があるのだが(笑)、
そのレベルに達したら、もう1回くらいTOEICは受けても良いかな?くらいに思っている(その頃には、英検やIELTSなんかも一度受けてみたい)。
まあ、ちょっと昨日はプチ挫折感を味わってしまったが、
英語を学ぶ楽しさというのは、
間違った時や、成長を実感できない時の苦しさも含めての楽しさなので、
今後も一生止めることはないだろう。
結果が返ってきたら、また記事にします。