昨日は、自宅で「ワンダー 君は太陽」を鑑賞。
2017年のアメリカ映画。
--------
「トリーチャー・コリンズ症候群」という名の遺伝子疾患により、
「顔つきが普通とは違う子」として生まれてきたオーガスト(オギー)・プルマン。
彼は10歳になるまでに、
27回もの手術を受け、入退院を繰り返し、
学校に通わず自宅で学習を受けてきた。
宇宙に関することや理科が好きで、
テレビゲームやハロウィンの仮装パーティー、スターウォーズが大好きなオギー。
そんな彼が、
母親の判断でいよいよ学校に通い始めることになる。
容貌が他の子たちとは違うことから、
いじめに遭うオギーであったが、
頑張って学校に通い続け、
ようやく一人の「親友」と呼べる存在を見つけた。
そこからオギーの学校生活は豊かになるものと思われたが・・・・という、あらすじ。
--------
オギーの抱えている遺伝子疾患と同じ病気を抱えていると思われる人を、
僕は実際に外で見かけたことがある。
初めて見た時の僕の反応と気持ちを包み隠さず言うと、
今までそのような顔の人を見た事がなかったので、
正直、ただただ驚いたし、
同時に「大変だろうな・・・」という
憐憫(れんびん)にも似た気持ちが生じたことは否定しない。
「見た目」の問題というのは、
この世に生きる全ての人間に、一生涯付きまとう問題であり、
「あの人は見た目が良い」、
「あの人の顔は好みではない」などといった、
視覚で捉えられた対象の価値判断の基準が、
僕たちの脳の中のどこで形成されているのか、
僕自身には全くわからないのだが、
とにかく「顔が、多くの平均とはかけ離れている」状態を目にした時、
僕たちの心は、なぜか大きく反応するのである。
オギーが物心ついた時から感じ始めた
「自分は普通じゃない」という自我、
まわりの人間の自分に対する反応、
27回という、
通常の人生では経験する事はまずない、
と言っていいほどの手術の回数。
10歳という年齢にして、
彼が通り抜けてきた、そのような過酷であっただろうオギーの経験を想像すると、
オギー自身が自分の生い立ちを語る冒頭のシーンから、
もうすでに、僕は溢れ出る涙を抑えることができなかった。
大人の世界でも基本的にそうであるが、
子供という生き物は、
自分たちと違う「異質なもの」に対して、
異常な興味と関心を抱くものである。
そして、その異質なるものに、
瞬間的に好きか嫌いかのジャッジを下し、
ひとたび「嫌い」という答えが出れば、
それを徹底的に排除しようとする動きを見せる。
もちろん、一括りにして、
全ての子がそういうわけではないが、
基本的に、子供は残酷であると思う。
オギーも、やはりその見た目が原因で、
クラス内で無視や蔑みに晒されることになる。
そのあたりのシーンを見ていると、本当に心が痛むのだが、
悩んでいるのはオギーだけではない。
オギーの姉のヴィアは、
弟のオギーが大好きで、心の底から弟を愛しているのだが、
反面、心のどこかで
「両親は、私の存在より本当はオギーの方が重要なのではないだろうか?」
という、かすかな疑念を感じているし、
ミランダという、
中学時代にヴィアの大親友だった女子生徒も、
高校に進学してからは、
派手なファッションに様変わりして、
どことなく自分を避けているような素振りをしてくる。
そのミランダも、
自身の家庭の複雑な事情が、
心に影響を及ぼしていて、
かつての明るくフレンドリーな自分を覆い隠している。
オギーの友達になったジャックも、
人知れず友達関係に悩んでいて、
本当は付き合いたくないクラスメートがいるのだが、
それを表に出すことができない。
この作品は、オギーを中心としつつも、
そのような個々の問題を抱えた子供たちの、様々な人間模様を描きながら進行していく、
ヒューマンドラマである。
「顔の病気」という、
取り上げる事が容易ではないテーマに、
真正面から取り組んでいる「見ておいた方がいい作品」であると言える。
はっきり言って「良い映画」なのだが、
一つの映像作品として、
消化不良に感じた点は、残念ながらある。
この映画は、
まず「オギーのパート」から始まり、
続いてヴィアの視点から物語を捉えた「ヴィアのパート」、
そして「ジャックのパート」、
「ミランダのパート」と進行していくのだが、
オギーのパートがひと段落した後、
オギーの初登校のシーンをもう一度振り返って、
今度はヴィアの語りを入れたヴァージョンで物語が進んでいく演出については、
割と効果的に思えたものの、
その後のジャック、ミランダについては、
正直なところ、個別パートとして区切って見せる必要性をあまり感じなかった。
映画が後半から終盤に差し掛かった頃には、
「別に、4人ともパートを区切って見せるような演出って、必要なかったんじゃない?」
とさえ思ったし、
それに加えて、
ちょっとした不和を抱えていたヴィアとミランダとの間に、
何か心を大きく揺さぶられるようなドラマチックな展開が結局なく、
いつのまにか元の仲良しに戻っていることに、
なんとも中途半端さを感じた。
「中途半端さ」を感じた部分というのは他にもあって、
最後の方にサマーキャンプで、
オギーとジャックが上級生に絡まれて、
森の中で掴み合いの喧嘩になるシーンがあるのだが、
そこで上級生の一人に倒されたジャックが、
地面の石に後頭部をぶつけるのである。
「あっ・・・これは、ヤバいやつや・・・」と僕は思ったのだが、
そこからは、後から駆けつけてきたオギーやジャックの仲間たちの助けもあって、
普通に上級生を巻いて、逃げることに成功。
後頭部をぶつけたジャックも、
頭から少しばかりの血が出たものの、
その後は普通に元気・・・。
僕はこの一連のシーンを見て、
「なんやねん。何もないんかい・・・」とツッコんでしまった。
こんなことを言うと、
僕がまるで、人が悲惨な目に遭うことを期待しているような人間に思われるかもしれないが、
僕はそういう人ではない。
どうか皆さん、誤解しないでほしい。
僕が言いたいのは、
「いや、何も大したことが起こらんのやったら、
思わせぶりなカットを挟むなよ・・・」
ということである。
あれはどう見ても、
「あー、やってしもた」という、
その後、よろしくない事が起きる流れに持っていく描き方である。
もしかしたら、
この映画を見たほとんどの人には、
あそこは、
ジャックに対して「何もなくてよかった〜」と思える「ホッとしたシーン」なのかも知れない。
こんなことを思った僕は、
ひねくれているかもしれないが、
あのシーンに関しては、
「あそこまで強調しておいて、
特にその後何もないって、映像表現としてどうなの?」
という感想を抱いた。
あと、中途半端というか、雑だなと感じたのが、
ジャスティンという、
オギーのことを率先していじめていた生徒がいるのだが、
ジャスティンのいじめが行き過ぎて、
彼が停学処分になる、というシーンがある。
校長先生の面談が行われるのだが、
そこでジャスティンの母親(こいつがまた嫌なヤツなんだ)が、
「もう新学期は、この学校のお世話になりませんので!
ウチの子ばかり悪者にしやがって!」と、
逆ギレ気味にジャスティンを連れて校長室を後にする。
僕は、このシーンを見て
「まあ、これが報いや、ジャスティン。転校を甘んじて受けろ」と、
悪者が去ったことに「ふう、めでたしめでたし」という気持ちでいたのに、
最後の修了式に、
普通にジャスティンがいて、オギーを笑顔で祝っていることに唖然。
「え!!
お前、めっちゃオギーのこと、好きそうやん?!
一体何があった?」と。
いや、別に、
あれからなんだかんだで、
ジャスティンは反省して、
オギーと同じ学校にいるならいるで、
それは別に構わないのだが、
それならそれで、
「あれからオギーに直接謝罪して、仲良くなりました」というシーンは、
個人的に欲しかった。
そうした経緯を一切描かずに、
修了式で、
笑顔でオギーに拍手を贈っているジャスティンをいきなり登場させるのは、
正直どうなの?と思わざるを得ない。
あの場面を見た時は、
ミランダがいつのまにか、
しれっとヴィアに対して友好的になっているのと同様に、
「雑やな〜」と思った。
そう考えると、
話をサマーキャンプに戻すが、
サマーキャンプで上級生とほぼ殴り合いの喧嘩騒ぎというのも、
かなりの大問題である。
あれだけのことをしてしまったら、
修了式でオギーが・・・・
と、この部分からこれ以上書くと、
大オチのネタバレになるので言わないでおくが、
これもまた雑である。
というわけで、
総合的に見たら「良い映画」である事は間違いないのだが、
細かい部分において不満を感じたので、
僕の評価としては、
100点満点で、76点。
世間の多くの方の評価と比べると少々辛めであるが、
色々と気になった部分については、
自分の中で無かったことにできないので、これは仕方ない。
ちょっと残念であった。
と言っても、
「見ておいた方がいい映画」という感想は変わらないし、
できれば親子で見てもらって、
親御さんは、子供と、この映画についてどう思ったかを話し合ってほしいな、
と思った作品。
という事で、今回も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。