フジロックフェスティバルに最大で1億5千万円の補助金が経済産業省から出される、という報道を今日のYahoo!ニュースで見た。
このニュースに伴って、アジアン・カンフー・ジェネレーションというバンドのメンバーの後藤さん、という方に批判の声が多く集まっているようだ。
僕はこのアジアン・カンフー・ジェネレーションというバンドの名前は知っているが、その音楽を腰を据えて聴いたことがないし、そうとなればメンバーの中に後藤さんという人がいるのもよく知らない。
念のために言っておくが、
僕は嫌味や皮肉をぶつけたい気持ちで、「名前くらいなら知ってるけど」と言っているのではなく、メタルとハードロックで育った人間なので、そっち方面をカバーする心と時間の余裕がなかっただけなのである。
「食わず嫌い」とか以前に、メタルに忙しすぎたので、そっちまで手が回せなかった、という感覚だ。
で、今回、ニュースのコメント欄や検索で、ざっと事の顛末を探ってみた。
要約すると、
どうも後藤さんは、このコロナ禍に於いてのオリンピック開催を非難するようなコメントを、ツイッターで出したらしいのだが、
その後藤さん本人はというと、「コロナ禍であるのに多くの人が集まり、オリンピック並みに懸念される」フジロックフェスティバルに出演する事になる。
この事に対して、
「オリンピック開催は非難しておいて、自分が出演する大規模イベント(フジロック)は非難せんのかい!」と後藤さんに対するバッシングが起きる。
バッシングを受けた後藤さんはnoteにて、
自身の思いを書き綴るが、その内容が「言い訳が苦しすぎる」「最終的に政府に責任転嫁ってダサすぎ」と、逆効果を呼びまた非難を浴びる。
で、なんだかんだでフジロックのステージに立った後藤さんは、故忌野清志郎さんのプロジェクトであったタイマーズの曲を政府批判の内容を盛り込んだ替え歌にして披露したのだが、
それが「寒すぎ」「シラけた」「ダサすぎ」という評価が多くを占める結果となった・・・
というものと僕は理解したんだけれど、オッケーですか?これで。
僕はこの時系列の流れをリアルタイムで追っていたわけではなく、今日のニュースのコメント欄で「なんか異様に後藤という人が叩かれているな」と興味を持ったので、
後追いで何があったのかを知る事になったのだが、
僕の意見としては、一言で言うと、後藤さんや、後藤さんと同じ意見寄りの人たちに対しては、
「まあ、好きにしたら」という感じ。
自分が思うようにやって、「あ、やっぱりこれオレがズレてたか・・・」と顔が赤くなったら、「ごめん、やっぱり僕が間違ってました」と言うのも言わないのも自由だし、
「うるせーおめえら。俺は信念持って、こうやって替え歌を歌ったんだよ。」と思うなら、
その姿勢を貫き通したら良い。
後者の方はさすがにアホだと思うけど。
僕は思春期の頃からロック(僕の場合、その多くはメタルで、中でも特に激しめのメタルだった。もちろん、それらしか聴いてこなかったわけではない)を色々と聴いてきた。
僕は音楽的嗜好に偏りがありつつもロックを愛してきたが、ロックミュージックが「思想」とか「生き様」として、僕の主張や行動パターンに根付く感覚を覚えた事はなく、
単純に「カッコいい音楽」という娯楽の側面のみが、僕の人生における訴求をほぼ満たしてくれていた。
僕がロックを聴き始めた1990年代初頭というのは、ロックがカウンターカルチャーとしての意味合いを無くし(この言い回しに「おい!」と議論をふっかけてくる年配者の方がいるかもしれないが、もしいたとしても今回は無視させてください)、
資本主義社会における産業の一部として機能することが完全に確立されているような状態だったと思うので(僕の個人的な見解です)、
正確に言うと「ロックが『社会システムに不満を持つ若者たちの表現手段』として、生きてるのか、死んでるのかもよくわからない」感覚だ(こう言ってしまうと、今日のタイトルに対して論理の整合性が取れなくなるが、まあまあ、そこは「方便」として「ロックは死んでる」という表現を使わせてもらったので、寛大なお気持ちで捉えてくださいませ)。
ごちゃごちゃと語ってしまったが、
簡単に言うと、僕にとってのロックは
「単に、数あるエンタメの中の一つ」に過ぎない。
ただ今回、「ロックは、かつては生きていた」と前提するならば、
「ロックの現在位置」は、
「とっくに死んでるけど、放置されて腐乱しているから、かなりの高確率で哀れみを込めた目で見られる物体」のような印象を、
僕は今回の一連の出来事(フジロックで後藤さんが替え歌を披露するに至るまで)を通して抱いた。
もちろん今の若い才能が生み出す腐乱死体には(あ、これ問題発言かも)、もといロックには
「おお・・・そうきたか。」とかなり感心、感動させられるものもあって、「死体なのに、まだイケるやん!」という現役感も、感じるには感じている。
そう言えば、今日の話から少し横道に逸れるが、
僕が高校生の時にこんな事があった。
僕とは違うクラスにいる生徒(男子)で、
雑な言い回しで申し訳ないのだが、このアジカンのような系統のロック(もうちょいカテゴライズを詰めると「ロキノン系」?って言うのかな?いや、この辺りも本当に嫌味を込めて表現しているのではなく、僕自身、このあたりのアーティストを通過していないから、雰囲気で言ってる。この言い回しがこの手のバンドに精通している人の逆鱗に触れたら、ごめんとしか言いようがない)のバンドを好んで聴いていた子がいて、
違うクラスだし、友達の友達くらいの関係性で、あまり喋ったりした事は無かったのだけれども、彼がある日、何かの用事で僕のクラスの教室に遊びに来たことがあった。
で、僕は当時、メタルをバリバリ聴いていて(メタリカやメガデスなどのスラッシュメタルなんかを好んで聴いていた)、その日は親しい友達に貸すために、ジューダス・プリーストの名作「復讐の叫び」(原題は「SCREAMING FOR VENGENCE」)のCDを学校に持ってきていた。
(↑アルバムジャケットのポスター)
僕はそのCDを休み時間に友達に渡そうとしたのかどうか、よく覚えていないが、ちょうどカバンからアルバムを取り出していて机の上に置いている状態だった。
そこに、その「ロキノン系の子」がパッと僕の教室に入ってきたのだが、その子は机に置かれたジューダス・プリーストのアルバムを見て開口一番、
「うっはwメタルとかw」
という台詞を放って、僕の耳と目には明らかに嘲笑としか捉えられない表情と笑いを浮かべたのだ。
当時の僕は、今よりも遥かに、メタルが好きで好きでたまらない人だったが、同時に「だけど、メタルが好きって言うの、ちょっと恥ずかしいんだよな・・・」という自虐的感覚も持ち合わせていた(これは、かなり多くのメタルファンが頷いてくれる、メタルファンが一度は背負った事がある葛藤だと思う)。
好きでありつつも、そのような感覚を持ち合わせていたせいか、僕は、
ロキノン君の「うっはwメタルとかw」に対して、「いや、バカにすんなよ。」と強気で応戦する事はなく、
「え・・・いやあ、まあまあ。俺はカッコいいと思うけど・・・」と、絞り出すような声を発して苦笑いを浮かべた。
か細い声で「俺はカッコいいと思うけど・・・」と言ったのは、メタラーとして最後の砦は守りたい、彼の言葉と態度の全肯定だけは許すまじ、と思った僕が取った、精一杯のファイティングポーズだった。
このタイミングでこのエピソードを出すと、読者の方から、
「ああ、このメタル好きの人(僕)は、メインストリームのロック(この言い方も、アレだけど)を好む人から、メタルをバカにされる屈辱的な言葉を言われた経験があったから、今回のアジカンの事を言いたくて仕方ないんだろうな。この人にとっての『復讐の叫び』なんだろうな。」と解釈されそうだが、
そういうわけではない。
本当にこの記事を書いている最中に、ふと思い出したので、この機会に書いておこうと思っただけだ。
で・・・話を戻してアジカンの事。
もうだいぶ長くなってしまったので、強引にまとめに入らせてもらう。
ま、後藤さんに限らず、Twitterでなんか発信する時は細心の注意を払おう、ってことです・・・ってなんじゃそりゃ(笑)。
後藤さんは後藤さんで我が道を行ったらいいと思う。後藤さんに限らず、色んな人が炎上しても僕には基本関係のない事なので、ま、そこはご自由に。
「ロックに生きて」くださいな、と。
これからも腐乱死体は消える事なく、道端に横たわり続けると思うけど、
僕も一人の「ロック好き」として、腐乱死体の今後の変遷を「愛」の気持ちを持って見守っていこうと思う。
というわけで、今日はいつにも増して変な内容でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。